映画・人数の町に見る現代日本
先日、中村倫也主演の「人数の町」という映画を見てきた。
内容は、主人公の蒼山(中村倫也)が借金取りに暴行を受けていたとき、謎のひげ面の男が助けてくれた。蒼山がそのひげ面の男に誘われるまま行った町は、誰にでもできる簡単な仕事(SNSへの称賛や誹謗中傷の書き込みやデモのサクラや行列に並ぶなど)さえすれば最低限の衣食住は確保され、町民の社交場であるプールで男女が意気投合すればセックスすら自由という奇妙な町であった。しかし、その分町から出ることはできるが違う場所への引っ越しはできないという絶対的なルールはあった。
蒼山がその町の生活に少しずつ馴染んでいったときに、妹を探しに来たという女性に出会う。ただならぬものを感じた蒼山は、一緒に妹を探そうとするが‥。というものである。
こんな町が理想郷かディストピアととらえるかは今置かれた自分自身の状況にもよる。現在、年収数千万あって人生の春を謳歌しているなら、こんな町は絶対に行きたくないだろう。しかし、現在貧困にさらされている人間はおそらく明日にでもその町に引っ越したくなるだろう。何故なら、貧困層はその町の住人にも劣る生活を強いられているからだ。娯楽どころか、住む家さえなくてネットカフェを彷徨っていたり、毎日心身を喪失するまで働かされていたりしていたら、仕事のストレスも寝床の心配もしなくていい生活なんて夢のまた夢のはずであるからだ。
それにしても、普通に考えたらこんな町がまともであるはずがない。そもそも、この町の住民は互いに名前さえ知らず、人隣りさえもわからないし、映画を見た限りでは、テレビや本や新聞といった出版物があるわけでもないし、映画や音楽やスポーツといった娯楽があるわけでもないし、衣食住とプールとセックスだけでは到底健康で文化的な最低限度の生活ができているとは思えないからである。言うなれば、餓死しない北朝鮮やソマリアみたいな生活であろう。
しかしながら、こんな人数の町みたいな生活すらできていない人間が年々増やされているのが紛れもない現代日本の現実なのである。
いったい、こんな国のどこが先進国なんだ。昨今のコロ助(新型コロナウィルス)で仕事はおろかネットカフェすらなくて路上に放りだされた貧困人間が無数にいるのに政治がやっていることは、一時避難所をどうしようかといった見当外れなことしかしていない。根本は、不安定な働き方や定住地がないという状況をなくすのが政治の役目であろう。
この人数の町も見た人間によって考え方は全く違うと思うが、私はこの映画は現代社会の闇を抉り出す社会派映画だと思う。人数の町というタイトルも、社会の底辺ですらない人間でも一人一人全く違った事情があるが数字になってしまったら所詮は人数で片付けられてしまうという残酷な現実とう意味が込められているのではいるのではないかと思う。